第五回 金山農民画の歴史(上)

第五回 金山農民画の歴史(上)

今日は(少しマニアックに)
金山農民画の歴史についてお話しましょう。

...ついてきてくださいね。 

農民画は文革の時代に陕西省戸県で始まったと言われています。

その目的は農業振興や増産奨励のプロパガンダであり、
勤勉に働く農民や科学的な近代農業などが描かれました。
「なんかちょっと勇ましく、実際よりかなりきれいめな」かんじの絵ですね。
当時は人の目につく壁などによく描かれたということで、
切手の素材にもとりあげられています。 

陕西省戸県農民画 
戸県農民画

さて、そうした戸県での成功を受けて農民画は中国各地に普及し、
描画指導のためにたくさんの美大卒の画家たちが農村に赴くようになりました。

こうして1972年、金山にひとりの画家がやってきました。彼の名は呉彤章(ウートンジャン)。
後に「金山農民画の創始者」と言われるようになった人物です。 

「金山農民画の創始者」呉さんとコトー
呉さんとコトー、2009年撮影 

金山農民画の歴史を語るとき、呉さんの名前を外すことはできません。
なぜなら、彼こそがそれまで模範とされていた戸県農民画のスタイルを打ち破り、
構成の破壊と鮮やかな色使いを特徴とする金山農民画のスタイルを確立させた人物だからです。 

下の写真も切手になった金山の農民画ですが、戸県のものと比べてみてください。
既に文革が終了していることもありますが、農民たちが自由自在に農村の生活を描いており、
ほほえましいかんじがしますよね。

こちらは「なんかちょっと微笑ましく、実際よりかなりかわい〜い」かんじ
とでも言いましょうか(笑) 

金山農民画の切手
金山農民画

さて、その呉さん。彼はもともと水墨画専攻で、
金山に来る前は海軍の広報活動に従事していました。

農民画指導のため金山に派遣されたとき、彼は民家のかまどやベッドの木彫り装飾、
刺繍や切り絵といった民間芸術を目にし、そうした民芸品を製作する農民たちに
高い芸術性を感じたと言います。そして、彼は積極的にそれらの要素を農民画の中に
取り入れ始めたのでした。 

例えば絵の構成です。呉さんが指導した時期の農民画はどれも意識的に
立体物を平面化しようとした跡が見られますが、これは絵の構成の基礎を切り絵に求めたからで、
その練習のために画家たちは描きたい内容をまず実際に切り絵で表現し、
それを見ながら構成を考えたとのことです。 

80年代に制作された朱素珍さんの作品
80年代に制作された朱素珍さんの作品。テーブルの上面と側面が平面的に並列に描かれている 

また、金山農民画のもうひとつの特徴である鮮やかな色使い。これは民間の刺繍の
配色などを参考にしており、目に見えた通りの配色にはこだわっていません。

実際、農民画家の張新英さんにお話をうかがったところ、彼女は構成と色を考えるのに
描画の何倍もの時間をかけているとおっしゃっていましたし、私も絵を習う過程で
配色に関してはものすごく時間をかけているのです。 

さて、構成の破壊と鮮やかな色使いという目に見える特徴の他に、金山農民画には
もうひとつ目に見えない大きな特徴があります。それは独特の指導法なんです。
次回は恐らく本邦初公開!の独特の指導法についてお話します(続く

金山農民画家への道 バックナンバー

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コトータケヒコ
上海在住の会社員。仕事の傍ら週末に金山に通い、
農民画家・陸永忠に師事。09年5月金山農民画院より
外国人第一号の金山農民画師に認定。日本農民画協会会員。
ホームページ(移転しました):http://nominga.net
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カテゴリー:金山農民画家への道

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