「大阪府日中経済交流協会」特別寄稿・・・中国ビジネスえとせとら(93)「"走馬看花"の上海」
■特別寄稿・・・はらだ おさむ熱烈歓迎!!「"走馬看花"の上海」
台風がそれた直後の午後 上海へ向かった。 午前中のキャンセル客の振り替えもあったのだろうか、機内は超満員。 3時過ぎになった昼食までの間 普段は手にしたこともない機内誌「中国之翼」をめくっていると、 一ページ大の三色カラーの広告「日本産 米」が目についた。 スポンサーは、日本国農林水産省、 白抜きの大きなコメをシンボライズして J に見立て、英文で「ジャパニーズライス」、 その下中央に三行の「有了口福、才有幸福! 日本進口、優中之優 為?家庭、錦上添花」 と白抜きのコメント、その左には大きく墨字で「好吃」とある。 日本政府お墨付きの広報。 4月の温家宝総理の来日時の首脳会談を受け、 検疫問題でストップしていた日本産の対中コメ輸出が4年振りに再開される。 今回は「コシヒカリ」と「ひとめぼれ」の24トン。 7月下旬には北京や上海の店頭に並ぶというが、ここでも知財権問題が発生、 すでに「越光」、「一目惚」の中国語表示が商標登録されていて、 関係者もその対策にアタマが痛い。上海の日本食レストラン
その夜はわれわれ二人に上海の友人数名が加わっての会食会。 「上海通」と「日本通」の集いとあって、 幹事役が選んだのが台湾人経営の「創作日本料理」チェーンのひとつ。 台北に5店、上海3店、北京1店の会員制レストラン。 上海の中心街の一角の古い街並みにあったが、入り口にも看板の表示はなく、 地元の公共機関の一部を改造したような3階建て。 路地の奥には老人たちが椅子を並べて夕涼みをしている。 暗証番号でドアが開くと、 薄暗い室内にはいくつものテーブルを囲んで大勢の青年男女が キャンドルの灯りのなかで会食している。 幹事役も二度目とかで、ほかのメンバーは全員がはじめて。 幹事の説明によると、 メンバーの紹介で予約すると開門の暗証番号をくれる、 値段も一品100元(1600日本円)程度、 一流の中国レストランよりは安く、雰囲気もいいのでという。 目が慣れてきて周りを見回すとなるほどOLのグループもある。 その夜一番高かったのは、アルゼンチン産のレッドワイン。 洒落たグラスで「創作料理」をサカナに試飲した。 很好吃(ヘン・ハオチ)、〆てひとりあたり日本円で三千円くらいであったとか (ゴチソウさまでした)。 第二夜は上海賓館(シャンハイ・ホテル)の最上階(23F)にある日本料理「河久」での接待宴。 主賓は某高官夫妻、われわれの合弁企業にも関心を寄せていただいている。 この「河久」、本店は大阪だが、上海での開店は天安門事件の翌年(90年)1月。 このレストランの開業には、わたしも深く関わっている。80年代後半の上海
日本人駐在員はまだ数十名、 某銀行上海事務所の2代目所長として シンガポールから直接現地へ赴任したわたしの後輩から、 ゴルフ場もニホンメシヤもない上海でどう過ごせ、というんですか、と嘆かれた。 それから2年半、紆余曲折を経て、 上海賓館(上海旅遊局傘下)と合作企業「日本料理 河久」の設立が調印されたのが、 89年3月。 内装工事にかかりはじめた6月、天安門事件が発生。 駐在員の大半が家族ともども帰国した。 90年1月4日、併設のカラオケ「雲雀」で開店披露がおこなわれ、 日本総領事閣下も出席、 ♪いい日旅立ち♪のメロディが流れたが、それから2年、 日本からの旅行者も少なく、赤字の日が続く。 そのオープン前 関係者しか知らないことだが、 日本から派遣予定の一級調理師たちによる"米騒動"があった。 ニホンメシヤで日本のコメが使えないのはどういうわけだ、こんなことでやっていけるか、 という次第。 当時の日本はまだ「食管法」が生きていて、コメの輸出は禁止されていた。 カリフォルニヤ産のジャポニカ「ササニシキ」を香港ルートでと検討もされたが、 3~4年前の「古々々米」で使いものにならない。 試行錯誤の末、上海近郊の特級常熟米でなんとかその場は切り抜けられたが、 生一本の調理師は♪包丁一本 晒しに巻いて♪去って行ったとか。 いまは日本政府がバックアップしてくれる世の中である。上海の日本人
2泊3日の走馬看花の上海から帰国した翌日、 4年ぶりに上海駐在から帰任されたばかりのZさんのお話を聞く機会があった。 わたしのような「馬馬虎虎(マーマー・フーフー)」な、大雑把な話ではない。 上海周辺で操業する日本企業はすでに6300社を越え、 在留日本人は留学生、出張者などをふくめると10万人を越えるという。 日本人学校は浦東地区に分校もあり、児童数は小中合わせて2400人。 特に小学校は超満員で待機組もあり、アメリカンスクールなどに通学している児童も多いとか。 日本人駐在員のほとんどは昼食を事務所近辺のニホンメシヤでとっているが、 その数、ピンからキリまで含めると数百軒。 競争も厳しく、その2~3割は経営者の交代が繰り返されている、ともいわれている。 従業員のほとんどは地方から出稼ぎの農民工の子女、 日本語が少しできると給料が上海の最低賃金750元(1万2千日本円)を上回るので、 学習意欲が高いという。 わたしは日系企業の現地責任者にいつもお願いしているのであるが、 「等身大のニッポン」を中国の人に理解してもらうのには、 職場における日々の「草の根の日中交流」が必要であると考えている。 在上海の日系企業の中国人従業員数を平均300名とすると、 その雇用総数は18万人、 従業員家族の平均が3名とするとその影響下にある人数は50万人をこえる。 上海市の戸籍人口は約千四百万人であるから、 日系企業と直接関係のある人口はその4%弱となる。 少なくない比率である。 農民工たちの暫住戸籍労働者を加えた上海の常住人口は約二千万人であるから その比率は少し下がるが、 職場や食堂などで接触の多い出稼ぎの若い子女たちにこそ、 素顔の、等身大のニッポンを理解してもらう「草の根の日中交流」は特に必要である。 高度成長の中国経済の底辺を支える農民工たちが、 いつの日か立ち上がる可能性があることを"肝底"に秘めておかなければならない。メディアをめぐって
上海の友人たちは日本に留学経験もある「日本通」であるから、 中国社会への関心はわたしたちと変わらないが、情報ギャップはある。 日本で大騒ぎになった「ダンボール肉まん事件」は北京テレビの放映であったせいか、 上海ではあまり話題になっていない。 かれらはそれよりも山西省のレンガ工場での"童年工"事件で憤慨していた。 事件は"人攫い"でわが子を拉致された親たちがインターネットで連絡をとりあって、 メディアを動かし現場を発見、政府を動かし事件を解決した"美談"仕立てになっているようだが、こんなことは氷山の一角。友人のひとりは、 上海の路頭で見かける身体障害の子供たちの物貰いも、 どこかでかどわかされた子供たちが手足を折られて、乞食集団に売られた結果だという。 貧しい農村では、一人っ子政策で女の子を間引きしたため嫁が足らず、 他所から拉致された女子の売買があるよ、と他の友人も語り始める。 かれらの情報源はインターネットと携帯電話、それに口コミなどだが、 騒ぎが大きくならないと政府は立ち上がらないのは日本(北海道の偽ミンチ事件)も同様だが、 まだ日本のメディアは頑張っているのではないか(ヤラセ報道もあるが)。 上海の友人たちはこの"童年工"事件報道のメディアの姿勢を高く評価していたが、 しかし、99%の記者は金儲け主義、 記事を書いてもらうには"紅包"(ご祝儀)が必要、ともいう。 ある日系企業では記者たちに"紅包"を出さなかったばかりに憶測記事を書かれて 返品の山を築かれた苦い経験を持っている、 "ペンは剣よりも強し"というが、記者たちにモラルというか、 正義心が欠如すると恐ろしいことだよね、とわたし。 「ダンボール肉まん事件」は帰国後、あれはヤラセであった、との当局の発表で なんだか一件落着のような話になってきているが、それでいいのか? 農民工にヤラセでダンボール入り肉まんを作らせ、 それをアルバイトのカメラマンが撮影、 北京テレビに売り込んで放映されたこの事件。 日本のヤラセ事件のように孫下請けの管理が不十分であったというわけにはいくまい。 背景は日本のテレビ局と同様、 視聴率アップ競争とコスト低減の製作システムがその背景にある。 日本の場合は、健康食品への情報渇望がその下地となり、 中国の場合、巷に氾濫する"ニセモノ商品"への関心があった。 これは「アル、アル」という視聴者の潜在意識が、 「ダンボール肉まん事件」を生み出したのであるが、 たとえ取材が「ヤラセ」であったとしても、 この種の商品はゴマンと存在しているのではないか、という疑いは晴れない。 ダンボール肉まんを作ってこの映像の主人公になった農民工は、 取材協力費を貰ってドロン(逮捕されていない)、 ヤラセ映像を作ったアルバイトのカメラマンと これを指示したディレクターは逮捕されたようだが、 北京テレビの責任者は出張中とかでその結末は明らかにされていない。 同じ映像を流した日本のテレビ局各社は、 北京テレビの報道だからと信じきっていました、あれはヤラセでした、 とコメントするだけでいいのだろうか。 その根っこの部分、背景を独自に取材、 それを報道し、逆に中国の各テレビ局に放映させる責任もあるのではないだろうか。 上海ではほとんどの日本人はNHKの海外放送などは見ているので、 この「ダンボール肉まん事件」は熟知していたが、 「日本通」の中国友人たちは北京テレビの放映であっただけに情報に欠け、 これだけ日本人が騒ぎ、 そのヤラセがわかった後も中国食品に不信感を募らせているのに 理解を示すことが出来なかった。 情報ギャップのおそろしさである。 かれらは、すぐわたしの危惧に気付いて、わたしの意見を求め、 独自に情報を集め始めたが、日常のこうした付き合いと話し合いが交流には欠かせない。 形式的な友好乾杯はもう昔のことである。 走馬看花(馬上から花を見る)、上海2泊3日の駆け足のレポート、見落としたことは多いが、 変貌する上海の底辺でなにか蠢くものを感じるのはわたしの憶測であろうか。 (2007年7月22日 73歳の誕生日の夜 記す) はらだ おさむ 大阪府日中経済交流協会
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カテゴリー:大阪府日中経済交流協会 特別寄稿